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ちょっと垂井
垂井町の紹介 日本の古代史に「三関」として世に知られるようになった。「壬申の乱」のあくる年から不破の道が「不破の関」と呼ばれるように成った。又、大海人皇子が鈴鹿山道を守らせる。ここが後日の「鈴鹿の関」である。後日、北陸道の越前愛発関と呼ばれている。大海人皇子は、まず自分の根拠地である東国に、敵軍の侵入することを極度に警戒したということである。天武系王朝がつづいている間は「不破の関」は常に守らせていた。奇しくもこの地は、石田三成の西軍が徳川家康に破れた(1600年)関ヶ原の決戦場としても、日本史に名を残すことになった。徳川家康は、関ヶ原合戦に勝利をおさめると、先ず東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道を整備した。中山道垂井宿は江戸から数えて58番目約440km(111里8丁町)、宿場の長さは766m(7町余り)です。中山道の道幅は3.6m〜5.4m(2〜3間)が普通で、広い5間の所や狭い2間位の所もあります。街道の西側には土手をきずき、松を植えて松並木をつくり、夏のひよけ、冬の雪よけにして旅人を守り、時には戦の備えや災害復旧の材料にしたともいわれています。美濃路の松並木は今も残っています。中山道の一里塚は板橋区に一カ所、垂井の一里塚は南側だけが完全に残っています。天保14年(1843年)、一般の人が泊まる旅籠屋が27軒(中10、小17)で、今も亀丸屋・長浜屋・丹波屋・若屋・亀屋旅籠屋の屋号が残っています。幕末になって商品荷物の往来がはげしくなり、弘化3年(1846年)、車の使用を歎願を熱心し、その結果、嘉永2年(1849年)、5街道で初めて車の使用がされ、小型大八車を大いに利用しました。今の連送業の始まりです。垂井町は当時の宿場・街道等の面影が他町よりよく残っております。垂井町浜辺は史蹟の宝庫であります。 垂井の地名の由来は清水が多く、其処から取った名前です。 垂井町は、南宮山・菩提山などから広がる扇状地となっていることから、その土壌の性質上雨水等が地中に浸透してしまう土地柄、水不足が多発し、夏場における飲料水不足、水田耕作の阻害など、古来から人々の生活を苦しめる要素がありました。この問題を解消するため、先人は力を合わせ、地下水を集めて利用する「マンボ」と呼ばれる暗渠(横井戸)を作り、その暮らしを守ってきました。現在でも町内において、その名残を数カ所のみでみることができます。マンボは、岐阜県南西部と三重県北西部の一部などでしかみられない、極めて珍しい文化といえるでしょう。 5月1日(水)〜4日(土)は垂井曳車山祭りです。「西町の攀鱗閣(はんりんかく)、中町の紫雲閣(しうんかく)、東町の鳳凰山(ほうおうざん)」の3つの「やま」を見にいらして下さい。紫雲閣は日本最大の勇姿を誇ります。 宿場とは、現代で言うところの鉄道の駅のようなもので、人や物の輸送の物流拠点をする町場です。旅人の世話をする本陣、脇本陣、旅籠屋、茶点と、人や物の物流拠点の世話をする問屋場が町場の中心をなしていました。街道がしだいに整備され、産業が発達すると、旅人に都合のよい店屋や旅篭屋がふえていき、宿場はその地域の経済、文化の中心として発達してきました。また、宿場町は情報伝達の場でもありました。近代的な通信機関のな江戸時代には手紙か馬子か往来人、行商人などの口伝が通信手段で、宿場から田舎の村々へもとどきました。 【中山道】 江戸を起点とする五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道、)の1つとして、1602年に開通。江戸の日本橋と京都を結ぶ中山道は、五街道の中で最も長く、美濃には16の宿場ガ設けられました。善光寺参りや熱田詣り、伊勢詣りなど参拝のルートとして栄えたと同時に、公家の姫君が将軍に降嫁するルートとしても頻繁に利用されました。 【美濃路】 東海道線垂井駅下車、垂井駅から南宮大社徒歩25分、南宮大社から展望台まで1時間、下りは45分です。 【鎌倉街道】 【東山道】 【伊勢街道】 【谷汲巡礼街道】
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